2009年10月31日

「ベルギー幻想美術館」

 数週間前、渋谷Bunkamuraでやっていた「ベルギー幻想美術館」へ行ってきた。

 ルネ・マグリットとポール・デルヴォーの展示があるというので初めて、彼等がベルギーにゆかりのある画家だと知ったほど、ベルギーにはあまり馴染みがない。ヨーロッパの北に位置している事と、首都ブリュッセルにEUの本部が置かれているのと、ベネルクス三国の一つだという知識しかない。あとあのオードリー・ヘップバーンの生まれた国だ。

 象徴派と呼ばれる19世紀末のあまりメジャーでない画家たちの絵がまず最初に展示されている部屋から始まり、フェリシアン・ロップス、ジェームズ・アンソールの絵を通り過ぎ、トリはやはりマグリット、そしてデルヴォーである。

 初めの方の世紀末の幻想画家たちは、判を押したように暗く不安な印象を受けた。レオン・スピリアールトは懊悩を一身に背負ったような「自画像」、そして「オステンドの灯台」に垣間見られる底知れぬ寒さ、そして厳しい風が見る者に迫ってくる。頼りなげな灯台が今にも荒海に飲まれそうである。フェルナン・クノップフの「女性習作」にもキャンバスの右半分を占めるおぼろげな女性の横顔、その遥か後景に灯台が配されている。海、それも真夏の開放的な海ではなく、冷たく拒む海というのが重要なファクターのようだ。

 どうやら世紀末と呼ばれる美術史的に爛熟したこの時期に、クリムトに代表されるような性的禁忌へと矛先を向けたデカダンスとはまた違った、より幻想的で無垢なものへの憧憬とも受け取られる象徴主義へと、この北国では向かっていたことが判る。それはなにか地理的な条件、気候、歴史的な背景が関係して、ひとつの潮流を形成したのだろうがよくは判らない。

 それと同時に輪郭を強調した一種マンガ的な、平面的な緻密さで聖書の一場面を描くレオン・フレデリックのような画家や、悪趣味を通り越したアンソールや、嘲笑的な裸婦を連ねるロップスのような画家もいる。それを紳士的に上品に結実させたのがマグリットだと言ったらかなり強引な気もするのだが、ひとつの流れとしては無視できないような気がする。

 〈不安〉 〈海〉 〈白〉―。
 この美術展を見ながら自分が連想した言葉である。
 そして「超現実の戯れ ルネ・マグリット」と題された部屋。
 一糸乱れぬリアルに徹したシュルレアリスム。「観光案内人」では大砲が擬人化されている。そして上半身が魚で下半身が人間という人魚の逆、海の模様の帆船など、これぞマグリットという「マグリットの捨て子たち」連作。ピサの斜塔を思わせる傾いた塔の微細な表現に、思わずコンピュータ・グラフィックスなのかと目を疑る。

 説明では彼の絵でよく用いられる言葉「デペイズマン」(意外な取り合わせをして、見るものを惑わせ驚かせる手法)や、彼独特の皮肉であるとの解説がある。象徴から意味を剥奪させたマグリットからしたら、見て驚いて、その緻密さや克明さから生まれる不思議をただ楽しめばいいといわれそうだが、常に見るものが意味を求める事を峻拒する意志のようなものが、その絵からは感じ取れる。遠くに静かな海がある。見るという行為がある。決して乱れない不可侵の海。これは何かの象徴なのだろうか?

 最後は「優美な白昼夢 ポール・デルヴォー」。計算され尽くしたマグリットの洗礼を抜けると、この筆使いの粗いデルヴォーの絵は安心する。肩の力が抜ける。97年生涯、その長い画家人生に於いて、一途に裸婦と機関車を追い求めた少年の面影に桃源郷をみる。

 裸の女たちは釣鐘型の乳房と豊かな陰毛を持ち、夜陰に白く浮かび無目的にたゆたう。鉄道のような硬質の物体がその間を切り裂いていく。
気づいた事は、彼女たちが何も見ていないことだ。閉ざされた目はもとより、虚ろな視線はどこにも向かっていない。心の交流を拒否した白い裸は、ただ見られるためにある。

 その大きさや完成度から白眉というべき「海は近い」。140×190cmの大作がこの展覧会の最後の壁に掛けられていた。ソファーに座って眺めてみる。

 黒い雲のたなびく月夜の夜。真ん中を街灯で画された左側を、原則的な遠近法でもって神殿のような床が遠くの海へと続いていく。着衣の老女と思しき後姿が手前にある。右側には剥き出しになった部屋で若い裸婦がベッドに腰掛けている。手前の街灯が途中から描かれていて、見ているものが宙から見下ろしている不安感がある。それと同時に遠近法により否応なく橋脚に隠れた奥の海へと吸い込まれそうになる。

 ああそうか、と思った。これは見方によっては駅舎に見えなくもないと。右の裸婦が居る部屋がプラットフォームで、左は海へ向かう線路。若い女はやがて線路に降り立ち、見えない列車に揺られながら、暗く広がる海へと向かう。海とは死の寓意だろうか? いや、感受性を象徴の柵で堰き止めるのはもうよそう。自分の目を童心に戻すべきだ、デルヴォーに倣って。そう、その絵からは不安を感じ取れない。デルヴォーはいつまでも夜の白昼夢に遊ぶ少年なのだから。
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2009年09月30日

藤子・F・不二雄「大長編ドラえもん Vol.7 のび太と鉄人兵団」

 北極で巨大ロボットを拾ったのび太は、ドラえもんに出してもらった「逆世界入りこみオイル」を使って、誰もいない鏡の中の世界でロボットを操作し遊ぶことにした。

 誘ったしずちゃんがコクピットで何気なくボタンを押すと、ロボットザンダクロスの胸から熱線が発射させられ、高層ビルを一瞬にして粉々に崩壊させる。ショックを受けたドラえもん・のび太・静香の三人は口外しない事を誓うのだが、のび太はなかなか諦めがつかなかった。

 そこへロボットの行方を捜していたリルルという少女が、のび太に取り入りそのありかを聞き出してしまう。リルルはのび太がロボットを持ってきた事を許すのと引き換えに、鏡面世界への入口である「おざしきつり堀」を持っていく。

 ドラえもんが様子のおかしいのび太を白状させると、鏡面世界では街が取り壊されていた。ザンダクロスの肩に乗ったリルルが陣頭指揮を執っている。SFのセットのように様変わりしたその街は、なんと地球人との戦いに備えた基地であり、地球人捕獲作戦の拠点となるものだった。つまりリルルは宇宙から来たスパイだったのだ‥‥。





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2009年08月31日

「グールド 鍵盤のエクスタシー」

 グレン・グールドのピアノ。テクニカルなリズム感覚と、極端なまでの内声の重視、それによって必然現われる作品構造。彼は建築に比するならば、建物の外観よりも骨組みを、骨組みより図面に記された厳密な数値を偏愛した。彼は外壁の美しい様相に躍らされることはない。彼はいつも構造を透視するのだ。彼が愛するのは調和であり、或いは計算された破綻―。つまりフォルムの美である。

 厳格で禁欲的な演奏を聴きながら思うことは、リズムを揺らしながら流麗に弾くピアニストよりも、よっぽど叙情的で詩的な発露を聴く者に与えることだ。それと同時に彼は、ブラームスのインテルメッツォに代表されるような耽美の極みのような演奏も残した。しかしそれは厳格なのである。揺らぐことは無い。だからショパンを嫌うのはもっともだ。それは揺らぎを前提とした音楽だからだ。彼がリズムの枠外に出ることは遂になかった。
 
 先日教育テレビで再放送された「グールド 鍵盤のエクスタシー」を初めて見て、彼が自分を救いがたいロマン派だと言っていたことを知った。彼が聴く者をじりじりさせるような遅すぎる演奏(ベートーヴェンの「熱情」第1楽章など)、反して目の覚めるような早すぎる演奏(モーツァルトのソナタなど)は、音楽評論家の吉田秀和氏に言わせると、ロマン派であるがゆえの憧憬であり探求の現われなのだという。引き割かれたロマンティストでも評するべきか。いずれにしろ彼のピアノが聴くものに、聞き流させない力を持っていることだけは確かだ。

 彼は人前に出る事を極端に嫌い、周知のように30代でコンサート活動をやめた。しかし自己顕示欲は人一倍あった様に思われる。それが証拠に自国カナダでのラジオ放送に加え多くの映像作品を残している。伝説と化している「ゴルドベルク変奏曲」を全く違ったアプローチで再録音してすぐ彼は死んだが、最後のゴルドベルクを弾く映像が残されている。若い頃の白黒映像で見る才気煥発でハンサムなグールドからは程遠い、50歳にしては老いた身体を丸め、老眼鏡を鍵盤につけんばかりにして弾く或る意味悲愴な姿。しかし一貫して変わらないのは、ピアノに対する飽くなき姿勢だ。最後は身体を脱ぎ捨て魂だけが弾いている、そんな感動を自分は覚えた。

 50年の生涯の中で彼は何かを求めピアノを弾き録音し続けた。吉田氏は言う、「幾ら探しても見付からないもんだから。だから彼は出発点に戻った」。それはなんだったのだろうか。ロマンティシズムの源流だろうか。いつも指先にあって届かないもの、彼はいつもそれを求めていた。
posted by ほっぱぁ at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | グレン・グールド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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