2009年06月30日

「これからの詩どうなる」

 先日6月20日、新宿明治安田生命ホールで開催された、現代詩手帖創刊50年祭「これからの詩どうなる」に参加してきた。

 「現代詩手帖」とは思潮社が1959年に創刊した雑誌で、50年の長きに渡り詩の普及に努めてきた。今回は深くかかわってきた大御所の詩人から、現代の若手まで一堂に介する機会であり、そうそうないなと思い予約した。谷川俊太郎、吉増剛造、高橋睦郎、そして吉本隆明が自分の見たい、あるいは聴きたい詩人だ。

 詩はどうなるのか? 正直なところ詩を含めた言葉の将来はよく判らない。日本語が混迷を究めているとも思わない。言葉はその時代性に最も影響を受けやすいものだから、一概に「乱れている」という指摘は当たらないだろう。ただその跳ね返りというべきか、元から零細だったこの分野が、より特異化している感は否めない。若手の詩人など一人も知らない。自分は好きな詩を好きなとき読めたらそれでよしとする人間だ。だから目当ての詩人たちを聴いたら、雑用を抱えていたこともあり引き上げることにした。結論から言うと、プログラムの半分でも楽しめた。ただそれは波乱含みのものであった。

 思潮社社長のいささか堅い開会の挨拶のあと、つかみは谷川俊太郎・賢作親子による対話「詩ってなんだろう」。グランドピアノに賢作、中央のいすに俊太郎が座る。谷川賢作氏はミュージシャンであって詩人ではない。しかし詩を乗せた曲作りやライブで詩人とのコラボレーションをしたりと係わり合いが深い。俊太郎が自作を朗読し賢作がピアノ伴奏をする基本線に、曲間には丁々発止のやりとりに笑いが絶えなかった。「音楽には意味がないからね」という俊太郎の言葉が妙に残る。

 次は吉増剛造によるパフォーマンス「gozoCine、そして」。
 予想通り自分の世界に浸り切っていた。ボソボソとよく耳を澄ませなければ聞こえない声量なのに、風鈴の紐を口にくわえながら朗読したりする。配られた資料は蟻のような細かい達筆で紙一面を埋めてあり、読みにくい上に難解を極めたものだった。フランスの片田舎で撮影した映像がスクリーンに映し出される。そこは雨模様で、石が乱立する遺跡にうずくまる少女。龍安寺の石庭を描いた透明シートをカメラの上に重ねる。BGMはジョン・ケージのノイズフルな弦楽。水滴。暗雲。灰色。この人の佇まいから浮かぶ言葉は“偏愛”である。壇上で新たに感動に浸る吉増氏。聴衆はいささか置いてきぼりを食らっている。一般受けはしないだろうが、その感動の幾らかを共有できるのがまた、詩を理解する分水嶺なのかも知れない。

 三島由紀夫や澁澤龍彦ともゆかりのあった高橋睦郎は次のシンポジウムの一人として登場した。釘でもくわえたら大工が得意そうなオッサンなのだが、白髪にベージュや白の出で立ちがよく似合っていた。詩人の持つ「宿命」について言葉少なに言及していた。

 休憩を挟んで第二部は吉本隆明の講演「詩論について」。
 NHKでも放映された「芸術言語論」から約一年ぶり。“聞き手”瀬尾育生の長めの紹介の後、車椅子で登場した。持ち時間は1時間である。延長しがちな話に、次が控えているから大丈夫かなと思ったが、この心配は半分当たった。

 「吉本です」という力強い自己紹介の後、彼が好きな西行や高村光太郎の話になった。自分などは新しいことを言う吉本さんに感心するのだが、繰り返し言葉を探す話し方に退屈する人は居ただろうし、つまらないと思ったかも知れない。
 親に隠れながら教科書を立てて詩を書いていたという挿話を、5,6回繰り返した。あるいはボケてるのではと疑った人は少なくないだろう。壮年の頃の講演を聴いて判ったことは、吉本さんの特徴はひとつの単語やセンテンスを旋回し渦を巻きながら、次の渦へとダイナミクスを伝えて行く手法で、それが年と共に遅れたり停滞しがちになった訳だ。
 結論から言えば、詩はコツコツ書けば良いし、尊敬する詩人のマネから入れば良い、あとはあなたたち次第だと言うことを、1時間近くかけて話された。
 では自分はどこを聴くかと言えば、吉本さんの話の本筋からいえば脱線や逸脱の中に時折現われる、ハッとする言葉のきらめきが好きなのだ。これが自分の偏愛なのかもしれない。逃さないようにしていたら肩が疲れた。
 「僕は詩を文学にしたかった」「芸術言語論を拡張させていけば、どこまでも無限に拡がる」――。

 奇跡的に時間内に話が終わって、ああよかったなと思ったのに、舞台袖の聞き手である瀬尾育生の質問に答えるのに更に倍の時間がかかった。要するに大幅に延長した。
 直接は関係のないリーマンショックに始まる不況の話のリフレインに、聴衆はざわつき始める。袖のスタッフが瀬尾さんに耳打ちする。

 漸く瀬尾さんがマイクを手にした。「時間がオーバーしているから終わらせてくれと言われているが、こんな野蛮で贅沢な時間はない。聞き手として皆さんが訊きたいであろうことを訊きたいと思う」。同意の拍手。すかさず会場のスタッフが口を挟む。「もう時間が押してるんで、結構です」。同意の拍手。真っ二つに分かれた聴衆。気色ばんだ口調で聞き返す瀬尾さん。いささかの緊張が走る。自分としては幾らでも吉本さんの話を聞いていて文句はないけど、瀬尾さん熱い人だなと思った。
 では最後に一言だけと念を押された質問に、吉本さんは15分ほどかけて答えられた。いやあこれは空気を読めないという次元ではないな、どこまで行っても本気で真面目なのだ。その姿勢にやられた野蛮で贅沢な一夜であった。

posted by ほっぱぁ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 吉本隆明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

作曲夜話

 表現の一環として曲を作っている。
 ピアノで気ままに弾いた気に入ったフレーズを形にする作業なのだが、曲のあるべき形とはなんだろうとよく考える。
 自分がもっぱら聴く音楽の分野はジャズとクラシックである。これはある意味対極の音楽だ。かたや自然発生のフレーズを紡ぐ音楽であり、もう一方は楽譜に書かれた音符を一音漏らさずに表現する音楽だ。
 表現する側からみたらジャズは自由であり、クラシックは堅苦しいのだろうか。
 そうとは言い切れないだろう。なぜなら、クラシックの決められた音符の中で自由に泳ぐ心地よさがあり、一方ジャズには往々にして陥り易いマンネリズムの響きがある。
 ただ、素人が下手の横好きで弾くアドリブですら、それは指の喜びをもたらす。それは堅固なクラシックの難曲を弾きこなす指の喜びとは、また別種のものだ。

 それらを踏まえた上で作曲していると、些かの悩みがつきまとう。気に入った好きな旋律を拾い集め、繋ぎ合わせてみる。コードを探し、音色を練り、順番に頭を悩ませる。文字通りの彫心鏤骨で、いけるフレーズですら合わなければ潔く捨てる。懊悩の末、ゴリ押しで、とりあえず形になる。さて、初めて弾いた時の感動や喜びはどこへやら。むしろつまらない曲を必死に練習しているような、そんな気さえしてくる。
 そこで最後に言えるのは、これはオレが作った曲だから、オレが世話してやらなきゃどうする。ということだ。そしてそれこそマンネリじゃないかと自問しながら練習する。そのうちに、曲に対する情愛を持っている自分を発見する。腐れ縁も見直すとなかなか捨て切れないものだ。そして再び感動する。より穏やかに、より深く。これはちゃんと完成した曲の場合に限るのだが。そのようにして表現の一環としての作曲をしている。

 自然発生で現れるものと、作りこまれたものとどちらが優れた音楽か。多分この設問自体が正しくないのだろう。音楽とは表現活動としての過程なのかも知れない。ジャズとクラシックは対極ではなく、同じ箱のそれぞれの面なのかも知れない。
posted by ほっぱぁ at 21:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月05日

旅5日目

090405_1153~01.jpg
090405_1345~01.jpg
090405_1336~01.jpg

三重県を通ってついに紀伊半島制覇!

再び名古屋はコメダ珈琲、順番待ちだよ〜。

名古屋コーチン定食食って、さてぼちぼち帰ろうっかな。。
posted by ほっぱぁ at 21:11| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
人気商品